2015年01月24日

鹿島城山公園

茨城県鹿嶋市の鹿島城山公園を訪ねました。
当地は鹿島城本丸跡を整備した公園ですが、鹿島城については鹿嶋神の道運営委員会が設置した解説板に次のように記載されています。

     鹿島城は今から約800年前の平安時代の終わりごろ、平国香の子孫である鹿島三郎政幹が、
    養和元年(1181)源頼朝より総追捕使(そうついぶし)に任命されてから、ここに城を造り、
    以後鹿島を支配しました。それから400年たった天正19年(1591)、鹿島清秀父子は
    常陸太田の佐竹義宣に謀殺され、鹿島城は落城、歴史の幕を閉じました。その後、佐竹氏は
    秋田へ国替えを命ぜられ、徳川家康は鹿島氏の一族を総大行事職(そうだいぎょうじしょく)に
    任命し、鹿島神宮の要職に就かせました。 − 後略 −

また、史跡鹿島城址の解説板には次のように記載されています。

     鎌倉時代初期約八〇〇年前の昔から、室町時代の天正十九年(一五九一年)に佐竹氏によって
    落城するまでの約四〇〇年間、この城は鹿島氏(常陸大掾氏族)の居城であった。
     永正の終わり頃(一五二〇年前後)義幹が大改造をおこない、それが高天原合戦(内紛)に
    つながったと鹿島治乱記はいう。
     現在本丸跡が城山とされ、二の丸他は県立鹿島高等学校、新町の区域などになっている。
     昭和五十九年の発掘調査によって、治乱記でいう萱葺きの痕跡や、地鎮等の祭祀的遺物、墨書
    土器等も出土した。
     城主後裔の鹿島家の協力を得て昭和六十三年より城山公園として開園。 − 後略 −

01)鹿島城山公園駐車場.jpg
公園北西側の駐車場 − 斜面の植栽文字は「ようこそカシマへ」

02)鹿島城山公園案内図.jpg
現地案内図から抜粋(方位表示、丸数字、「県立鹿島高等学校(二の丸跡)」は加筆)

03)鹿島城搦手.jpg
駐車場から斜面途中の平場へ遊歩道が整備されているのですが、あえて西側の搦手口と思われる入口から入りました。(案内図

04)鹿島城搦手.jpg

05)鹿島城腰曲輪.jpg
坂を上りきると、駐車場から見えていた腰曲輪跡と思われる平場に達します。

06)鹿島城堀切.jpg
この腰曲輪の南端には堀切を確認できます。

07)鹿島城堀切.jpg
前掲堀切の東、一段高い位置にある堀切(案内図) − 本丸から南に突き出ている台地を断ち切っています。

08)鹿島城本丸.jpg
本丸跡 − 公園化される以前は耕作地だったので、遺構はほとんど残っていないと思われます。

09)鹿島城土橋.jpg
本丸虎口前の土橋と空堀(案内図) − 本丸東側には深い空堀が残っています。

10)鹿島城跡.jpg
空堀外側の土塁上からJR鹿島神宮駅方面を撮影(案内図) − 手前には城の外郭部が存在したと思われますが、宅地化で削り取られています。

本丸側は深さ10m以上の空堀です。
11)鹿島城空堀.jpg

12)鹿島城横堀.jpg
北東部の横堀(案内図) − 奥の土塁手前で右に曲がり低地へ落ち込んでいます。左斜面の上が本丸です。

13)鹿島城腰曲輪.jpg
北東部の腰曲輪(案内図) − 縁部には土塁跡らしき盛り上がりが見えます。

14)鹿島城腰曲輪.jpg
腰曲輪(案内図)から土塁が北へ伸びています。遊歩道が貫いていますが、公園化される際に削られてしまったのでしょうか。

15)鹿島城本丸北.jpg
土塁脇から北西方向を撮影 − 正面斜面の途中にも小さな平場があり、やはり腰曲輪跡と思われます。

16)鹿島城本丸眺望.jpg
本丸跡から西方向の眺望

残っている遺構は少なかったのですが、本丸跡は一辺約150mもある方形で城郭全体の規模の大きさを伺える城跡でした。
以上、2014年12月訪問時の記事です。

posted by ぱぺすけ at 18:05| Comment(0) | 城跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする